昭和44年02月23日 月次祭



 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神ではなし。」今朝からの御理解の一節でございます。「天地金乃神は昔からある神だ」「途中からできたのではない」と。それが金光大神のご信心によって現れなさった神様ではあるけれども、いわゆる昔の昔からあられる神様であった。ですから天地ははやる事がない。はやる事がないから又終わりもない。天地と共に極まりなく、お互いがおかげを頂いて行きたいと思うね。 私共が拝ませて頂いておる天地金乃神様が、はやりもなからなければすたりもないと。
 そういう神様だからいつまでも、いつまでもおかげが受けられると言う様な考え方は甘いと。金光教は今のような状態でいったら、衰微の一途を辿るだけだと。天地の親神様のおかげというのは、それは何時いつ迄も続くであろうけれども、金光大神取次の道の働きがね鈍って来る。そうすると金光教の信心の比礼も落ちて来る。それは千年も二千年も続いたといわれる、例えば仏教とかキリスト教と言った様な大宗教があるけれども、その大宗教が、いわゆる既成宗教というね。
 もう出来上がった宗教として、もうそこには何と申しましょうかね、いわゆる生きた働きというものを感じる事が出来なくなって来た。この方生神金光大神の道は、普通では「無常の風は時を嫌わぬ」と言うけれども、金光大神の道は、「無常の風が時を嫌うぞ」とお教えられるほどの、いわば生き生きした働きというものが、今のような状態ではなくなるんだと。そこで最後に仰っておられる、そのためには「天地日月の心になること肝要なり。」と言うておられると。
 「天地日月の心になる」と、まぁの事を私今朝皆さんに、いろいろまぁ聞いて頂いたんですけれども。「天地日月の心」というと大変に難しい。大変に範囲が広い。その「天地日月の心になること肝要なり」と。今日はそのう「天地日月の心になること」と、ですからまずひとつ「天の心」と。「地の心」もですけれども。「天の心」をまず知らなければならない、「地の心」を知らなければならないね。日のまたは月の心も分からなければ、天地日月の心になる事は出来ません。
 「天地日月の心になる」そういう精進から、初めて天地金乃神のご比礼というか、働きをいよいよ現していけれる信心。天地の親神様のおかげというのはね、もう全てのものいわば、生きとし生けるものの上に一様に下さってある。それを金光大神取次ぎの働きによって、その働きをここに集めて下さる。ですから無常の風が吹いてきよっても、風を横の方へ、いわば吹き散らかして下さる様な働きがあるという事です、今朝の御理解。それには私共が「天地日月の心になること肝要」だと教えられる。
 そこでまぁ天地日月の心にならして頂くと言う事は、どう言う事であろうかと、いろいろ思うてみる。今日は朝から久保山さん、いつもこう朝散髪に来て下さるんですけれども、もう今日はもう立ち上がられんのです。それもいつもお参りしてくる人ならいいばってん日曜でしょ。ですから今日は遠隔地からそれで月次祭でしょ今日。ですからもうとにかく遠隔地から、もう家族で参ってみえて様々な願いごとが、皆さんあられるもんですから、立ち上がられんのです。
 もうやがて11時近くまで、とうとう久保山さんを待たせてしまった。それからあちらへ下がらせて頂いてから散髪してもらい、私髭を取ってもらう時にこう、休んで取ってもらいます。もういつももう髭剃ってもらいながら、ウトウトと眠ってしまう。ちょうど高橋さんと久保山さんと二人で御用しておられました。でもう先生が眠ったからと、抜き足差し足で、いつも帰られるらしいんです起きらないように。そして私もやっぱり今日も眠っておりました。
 そしたら12時まぁ小一時間も休んだろうかと思う頃、高橋さんがちょうど家内も枕元におりましたから、あのう親先生まだお休みですか、ちゅうてこそうっと言いよんなさる。私は夢うつつで聞いてから、はぁ誰か起こしに来たばいねと思いよった。そういう時に私はお夢を頂きよったんです。そのお夢が丁度切りのよかところで起こされたです。あら途中でよかところで起こされるなら、ぐらぐらしていらんこと来てからちゅうごたってしょうが。今日は丁度良かところでですね。
 本当よかところで起こされて、こげん気分の良か事はなかったけれども、あんまり気分のよいお夢ではなかった。というのは私がそう一生懸命怒られよるところなんです。どっかですね、ここのご信者さんも一緒にそのう、バスでどっかご本部参拝かなんかでしょうね行きよるです。ところが途中でご信者さんの家に寄らせて頂いたらしいんです、私が。それで私がそのう皆んなを待たせてから、こう行ってこう暇がかかったんでしょう。菊栄会秋永先生を先頭に菊栄会の連中、総代さん方も迎えに来なさったとこです。
 もう親先生ばっかしは条件に及ばん、ほんなこげん遅うなってからその言いようがもうえげつないえげつない。もう馬鹿んごつ言うてから怒られるとですもん。それで今度はバスの中は向こうの方に見えよるとばってん、そのバスの中で今度は婦人会の方達が、また一生懸命悪う言いよるとが、聞こえよるとじゃなくてそれが分かるんです。それがお夢ですから。秋永先生の奥さんが一番口になって言いよんなさるとじゃん。
 もう親先生ばっかしは条件に及ばんちゅうて。それけんみんなが尻馬ん乗ってから、ちょいと条件に合わんと言うて、その婦人会の方達がおおかた。もう一生懸命悪口ば言いよる。はぁこっちじゃもうその秋永先生を始め、みんなでワイワイ言うごとしてから、あなたばっかしは条件に及ばんち言うてから、私はもう黙ってこうやってから悪う言いよるとば聞きよったんです。そしたら高橋さんが走って来てからあのうとにかくみんながやかましかけん、早う自動車に乗んなさらにゃと言いますから。
 ところがあら私は今、あそこでお神様にお礼する時に、お神様の前にいつも持っとるカバンがある。あのカバンを忘れてきとる。そしたら又あぁたが本当にまた忘れてから。また暇んいると言うてから、今度は階段があるごたるもん。階段をダンダンダンダンて、高橋さんがカバンを取りに行って下さるところなんです。そしてまぁそのやかましゅう言われよるとが何か分からん、どげん言いよるかは分からんばって、とにかく怒られよるところ、皆んなから怒られよるところでございます。
 それで私がそれをじぃっと聞かせて頂いてから、もうその怒り止めてから私が言うところです。「あんただん何ばそげんやかましく言いよる所の。」ち「合楽で日頃信心のどういう稽古をさしてもらいよるとの」ち。「これがね例えば私達が乗っとるのが、これが汽車かなんかならくさい。そら皆んなにご迷惑かけんならんから、そりゃあううたどんがやかましくも言わんならんけども、貸し切りバスが遅くなる分はどうあるかち。
 私が遅くなった為に災難が避けられる、と言った様なおかげを受けられる事に、であるのかも知れんのだから。日頃の信心なあんた達はどこにおいとるか。」と言うて私が今度は改まって、それをま厳しく私が今度は申しましたら、みんながしゅんとしとる所で目が覚めた。もう丁度良かとこじゃった。もう私もこれば言わんでから起こされるなら、もうグラグラするかも知れませんけど。怒られたばっかりじゃなくてですね。それはやっぱ怒られる時は黙って聞かないかんですよ。じぃっとしゃごんでで聞いとった。
 その上物忘れして来とるもんじゃけん又やかましいよるね、遅くなる位の事は良いじゃないかと。私もいわば遊んでいきよるとじゃない。んなら神様のご都合で遅うなりよるとじゃから、遅うなったおかげでこういうおかげを頂いたと言う事になる。そう言う事を日頃いつも教えを頂いておいて、あんただん何事を言いよるかと。そこにまた水を打ったように皆んなが静かにそのことを聞いて下さって目が覚めた。私目が覚めてから思うたんです。もう本当みんなそうみんなそうじゃないだろうかと思うんです。
 もういうなら心で皆んなから怒られておるのじゃなかろうかと。親先生あぁた何ばぐずぐずしよんなさってすかち。もうあたいだんもうこげな難儀ば持っとるですよ。こげな難儀ば持っとるですよ。こういう問題が起こっとるとですよ。それをこうしてからというてです。ま例えていうならば、私を怒んなさるような心が、それぞれ皆さんの心の中にあるのだと。こりゃ私もちゃんとせにゃいけんけれども。さぁそこんところは神様のご都合なんだからと言う事なんですね。
 先生に文句の一つも言いたい。言いたかろうけれどもそれは分かるね、けれどもねその言いたい時にこそ、本気で天地日月の心になること肝要なりと仰せられる、天地日月の心にならせて頂く、いわゆる天地の心を心として、日月の心を心として、私共の生活の指針というものがですね、私共のその生きる姿勢というものが、天地日月の心を心としての生き方にならせて頂いたらね、神様も合わせんならんところは合わせて下さる。
 頂けるおかげが頂けれるということに、なるのじゃなかろうかというふうに。先ほどのお夢の中から、はぁ皆んなの、例えば合楽にご神縁を頂いて一生懸命信心をしとればしとる人ほど、先生は何ばぐずぐずしござるじゃろうかと言う様な意味合いにおいて、私はそういうまぁえんさままこちい、えんさまこちいうのはちょっとおかしいですけれどね、恨まれとるという訳でもなかろうけども、先生頑張って下さい。何しござるですかと言った様なものが、その声を聞くような思いが致しましたね。
 ですからあんた達は何事ば言いよるかと。汽車の時間にども遅れたというならばってね、そのおかげを受けられん、それがもう致命的なものかなんかというならいざしらず。それでもやはり日々のおかげは頂いておるじゃないか。日々有り難くその中に有り難く生活さして頂けれる、いわば信心を教えて頂きよるじゃないか。日頃の信心をどうしとるかと。遅くなれば遅くなる事がおかげなんだね。またそれを例えば早くおかげを頂きたいならばなぜ早く、おかげの受け物である所の天地日月の心にならんのかと。
 例えば教えて下さっておる様なお夢であったとこう思うのですね。先ほど光橋先生がお祭前の前講を務めておりました。えらぁい話しござったばってん、五分間しか話さんやったですね。もうえらい話したように私は思うとったけれども、時間を見たらちょうど今十五分あると思うとるとあと十分あったから、五分間しか話してなかった。お話というものはもうなかなか。本当に十五分も二十分でもすると言う事は難しい事だと思いますね。一生懸命それこそ随分もうお話をしたようでしたけど五分間であった。
 その五分間の中の結局頂きどころは、開口一番ね、今朝からの親先生がおっしゃったことは、私もその通り様な言を思うておったというその事なんですね。私はおかげというのは、私はそうだここでおかげを受けると言う事は、そう言う事だと思うんですね。秋永先生がいつも、例えば今は毎朝参られますけれども、昔は月次祭たんびぐらいだった。いろんな会合の時にやってくる。やって来てからお話を致しますとですね、それこそ今朝の御理解ば頂いとったように、様な言を話すんですよね。
 不思議だと。つながっておる証拠ね。ですか先ずそういう意味合いにおいてです。先ず私と皆さんが本当につながらなければならない。先ずなんというても。金光様のご信心はもうここが絶対なんだね。最近あのう佐田さんのご主人がそれをいつも、ここでは言われませんですがね。でもお家で言われる。今日はもう俺が思いとったことを親先生が話されたとね。繋がっていきよんなさる証拠です。熊谷さんがいつもご祈念の後に参ってみえます。御理解頂き終わってからです。
 バスの時間の都合で。一番で参ってもそうなる。そして今朝からこうこうしてお夢を頂いたと。あらそれはあんた今朝の御理解たい、という様な事であるね。そういう風に先ずひとつ、合楽の信心をさして頂くならばね、合楽の信心振りというものが、先ずひとつ身に付かなければならないね。ここでいうならばですね、今年の信心の焦点である、スローガンでありますところの「より明るく、よりにこやかに」という事を一生懸命心掛ける。そういう信心からです、必ず私と繋がる事が出来ると私は思うですね。
 けれどもこりゃ自分の流儀だからというて、自分の流儀を先に出す。それはそれぞれの個性を持っておりますから、流儀があって結構ですね。誰の通りと言う事は出来ませんけれども、なんというてもねやはり私の信心を、いわばここで受けに受け抜いて、そこからあなたの個性が生まれてくるというのでなからんと、私は合楽的本当のおかげになっていかないね。天地日月の心というその天地の心という、その天の心というもの。これはもう与えて与えて与えても、まだ与えるという心なのです。天の心ですから。
 だから先ずそういう心が皆さん出来なきゃいけんのですね。与え惜しみをしない。もう与えて与えて与え抜かせて貰う。それを私共が又はね神様が与えに与えて下さるそれを大地の心で受け止めていく、先ず私共が与えれる人ね愛の人にならなければならん。ところがさぁここに与えようと思うても、何も持たんでは与える事が出来ませんね、そこで私は与えるものを先ず頂かなければならんね。今日は私ここを下がらせて頂いたのが、四時半のご祈念を頂いてから、茶の間に行ったのがもう五時頃だったでしょうか。
 丁度テレビがそのうなにか漫才のね、新人の漫才のコンクールがあっておった。新人のいわゆる若い漫才師の人達が、そのう技を競うておるというか芸を競うておる。そして今日はどこかのあれで、そのう賞を日本一を若い漫才師の日本一をつくるというので、一等から二等三等まで決まる訳なんで。そのうもう済んでしもうてからね、その賞状渡しのありよるところであった。あのなんとかという背の低ぃくいとと高いとの若いなんとかというのがおりますね。東竜太。
 東竜太とかなんかという人達のコンビの人達が、その一等賞を獲得してから、賞状と賞品を受けてアナウンサーの方が。そのうこうどう感じられますかというてから、そのマイクを持っていきよりましたらね。もう胸が詰まってものが出らん。もう本当にしかし奇異な思いでしたですね。もう笑わせる事が商売。この人達はもう冗談のごたる事ばぁっかし言うとるけん、日頃もそうかと思いやそうじゃない。あの人を笑わす事の難しさに、もうそれこそへとへとするほどの稽古に稽古を積んで。
 今日あるを目指して一生懸命の、人笑わせの稽古をしたという事なんです。そしてそれが日本一になって、その賞状を受ける時にです。日頃その笑わせておった人達がね、もう感激で胸が詰まって物が出ない。そうでしょうと言うてからアナウンサーが言ってましたね。私共がね折角信心をさして頂くならね、この日の為にね神様がそれぞれの氏子におかげを受けてくれよと願ごうておられる、そういうおかげを受け止めれる事の為にです、その日の為にお互いが信心、精進というものを惜しんではならないという事。
 また今日夕食を私頂きよります時に漫画があっておったテレビで。それがその何か何ちゅうですかね怪物、怪物君か何かちゅうごたる風なそのですけれども。私が何時もお話をする様なやつば、私がつば真似とった様な言葉言いよるです。あの六地蔵さんのお話がありよるとです。丁度そのお爺さんが六地蔵さんに、たこん傘をかぶせちから。帰ってきとるとこ。それでお婆さんに只今と言いよるとこじゃった。して今日はこうじゃったけん、たかん傘を六地蔵さんに被せて帰って来たと言いよるところ。
 したらお婆さんがそらぁよか事して来なさったですねって、私がいつも言うとる通りの台詞を言いよる所でしたね、是はもう私がいつも申しますようにね、私共のおかげの受けれる心と。例えば今日の朝の御理解でもそうでしたよね。天地日月の心と言う言をです。いわゆるそのう結論から言うとですね。この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせぬと。やれ痛や今みかげをという心になれよと。やれ痛や今みかげをという心になれよと、この方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせんと仰る。
 そういう私は信心がいよいよ本気で出来なければならない。それが爺さんだけはいかん。婆さんもやはりそういう気にならなければ、その家庭のおかげになってこないて。爺さんだけがあぁよかことしてきたというて帰って来ても、婆さんがあぁたばっかりは馬鹿じゃなかですかちいうごたる風に言うなら、もうそれでおかげは崩れるて。先ほど佐田さんがお届けしておられますたがです。もう最近のあの一番小学の一年生の恵介君が変わるのに、もう親達が驚くちね腹を立てるそうです。
 けどもすぐその朝のご祈念の時その事を思うらしいて言われるです。今腹立てたのがもうスパーと心を切り替えてですね。もうニコニコしとるちいう。もう本当に子供とは言われん。その事を神様に御礼を申させてもらいよりましたら、総絞りの着物ば頂いたと仰る。総絞りね総絞りということは、一家を挙げてのその事に打ち込んでおると言う事であろうと。そういう子供に至るまで、しかも子供にはあのグリコのこうやって、あのこうして走ってね、ゴールインしたような絵が付いているでしょう。
 あのグリコのキャラメルをそのうご神眼に頂かれた。子供にゃ子供にそういうおかげを下さってある。それこそまぁだ何やらかにやら分からないくらいの子供達までが、総絞りのおかげを頂いておる、それこそ親が教えられると言う事、本当ににこやかに明るくいかなければおられない、また子供までがそこに焦点を置いておると言う様なです、在り方の中にしか、私は神様がおかげを下さらんと思うのです、本当のおかげ。そして神様がこういうおかげを下さる事のためにです。
 こういうおかげを下さる事の為に、あぁであったこうであったと言う言をひとつ分からなきゃいけんね、今日も私もう本当に、もう泣くにも泣かれんと言った様な、最近人間関係の問題が非常に多いですね、その様な事で兄弟でお参りになった。けれどもね金光様の信心頂いとりゃもうとにもこれは、もう張り裂けるような思いをして、それこそ目を泣き腫らしてもう昨日から泣き通して。それでもうどうもあんまり泣いてから、顔の人相の変わっておかしいから。
 まぁ今日は午前中来りゃ親先生に会える事は分かっとったけども、来れなかったと、と言うて午後からみえたんです。ほんなこて目はこうふうづきの目んごとなっとる。もうそれこそもう、本当にもう泣いてその泣いて加勢してござるとですその人は。ご兄弟の問題ですから。そしてとにかく親先生にお取次ぎを頂いてお願いをしてからということ、もうそれこそお話を頂かれたらですね。それこそ今迄のこのもうそのう悲しかった苦しかった問題が、もう本当にそれどころじゃない事は分かっとりますけれども。
 親先生にこうやってお目にかからなければ、こういう気持ちになれないと言うて帰られました。それがですねその一家の方の場合は、今毎日それなんです。問題がコロコロコロコロ変わっていくわけなんです。昨日こうと思うて一生懸命張り詰めとったら、明くる日はもうこげん変わっとる訳です。だからこれがはぁもうこれが成り行きじゃけんと思うばってん。あまりに歯がゆい事であり、あまりにもあまりにも、そのこれがコロコロ変わっていくもんですから、それをおかげと思いながらおかげと分からんのです。
 しかし私は信心の有り難さというものはですね。自分の思いを捨てて神様の思いを聞かせてもらい。その思いを聞かせてもろうたら気持ちがスキッとするというところまでは、お互い頂かにゃいかんと思うですね。それを自分が右にしよう左にしよう、いや右にしたがおかげ左にしたがおかげと、自分でおかげをこうだと決めておるところにです。私はこれが治まらんとこう思うですね、そして神様の演出の素晴らしさに、只々驚いてしもうて、神様がここまでこう言う風にお膳立てをして下さってあると言う事は。
 是からもどうなら帰ったら、又どう変わるか分からんけれども、さぁそこば又おかげを頂いていったらよかろうがという。私共の今の合楽でおかげをおかげというのはそれだとこう思うんです。どういう苦しい事があってもね、そこをそれをおかげとこう頂いていけれる。そのおかげの頂けれる、そのことわけを聞かせて貰うんですねここではね。ですからどういう問題があっても、それをおかげとしてスキッとして帰る事が出来る。それがおかげの元になる。
 ある方なんかはね。もう息子さんが非常にその働き者じゃった。ところがその嫁さんをもらわれるのに、そのういろいろ失敗された。それがね子供の時に火傷をされた。四つか五つか時にね。それでそのもうどっかこの辺から、こう火傷の跡があるから髪をいつもこうしとる。そんために縁談が崩れるちゅうわけ。それでもう最近はね毎日毎日、そのうお母さんやら兄弟やらの反発ばっかりをしていかれるされる。そして最近ではもう死ぬる死ぬるが口癖。もう薬は用意しとる。もう私の命はいついつまで。
 まぁそれを聞く兄弟やら母親やらというものは、もうそれこそもう本当に自分が死んだ方が増しと言う様に難儀をしておられるね。だから私はその方に申しました。昨日はそれを本当に綿々と書き綴った手紙をよこされました。今朝からその方が参ってみえられました。その方がね。そして私その方に申しましたね。もうどげん息子さんがね言いなさったちゃいいじゃないですか。出て行くて言うなさんなら、出て行きなさたっちゃよかですよ。それをあなたがついて回ろうとするから、苦しいんですよとね。
 死ぬるち言いなさんなら、薬を飲みなさんなら薬を飲みなさたっちゃいいですか。けれどもねあなたがもう本当に、どう言う事になるじゃろうかと思いながらも、金光様金光様とお縋りして、おんなさる間は絶対心配いらんと私は申しました。もうそれば一言頂いたら、もうそれこそつきものが落ちたように安心されます。これもう本当にそうですね、お互いがどのような難儀があっても、心に金光様金光様を頂き続けておる時ならねおかげになるです。けども金光様もいう事も忘れて、そして難儀に打ち込む心配に打ち込む。だからおかげにならんのです。
 そういう中にあってもです。心配はいらんとあなたがついて回る事はいらん。放からかしときなさい。と言う様にね一言の御理解を頂いてです。心がスキッとすると言う事がおかげなんですね、だから今合楽でおかげを頂くというなら、これがそこを先ず頂かなきゃいけん。そういう稽古。そういう心が天地日月の心になる稽古なのだと言う事なんです。そのご兄弟の方が私はコタツの間でお取次させて頂いた。それからまたこちらへ五時頃から座りましたから、こちらへ来たらまだここでご祈念しておられて。
 ここでお届けをしておられた。そんで私はここへ座らせて頂いた。そしたら教会という事を頂いたね、合楽教会の教会。それでその方達がね兄弟でみえましたから申しました。あなた方がね私のいう事を聞いてから心がスキッとして、いつも帰られるという事がね、もう私こげん有り難い事はないて。ここをあなた方が教会と思うて来なさるからですよと私申しました。ただ教会という所難儀を持っていく所の様に思うておる人もあるけれども、教会という所は信心の稽古に来る所。教会とはもうおかげを頂きいく所。
 だから私の一言で心がスキッとする。あなた方がここを教会と思うてみえると言う事が、私有り難いというたら、もうそれがまた有り難いというて帰られたね、皆さんそうなんですよ。ここを教会と思うてこにゃいかんのです。ここでは信心の稽古をする所。ここではねそういう自分の心のですね、いうなら洗濯とでもいおうかどんなに難儀な問題であっても、その難儀な問題は置いていけて。そして神様が右とおっしゃりゃ右、左と仰りゃ左の心になって帰られるという所なんだここはね、それがおかげを頂く。
 そしてならなら誰が見ても誰が聞いても、本当にいうなら夢にも思わなかったようなおかげと言う事に展開してくるおかげを頂くために、やっぱりそこんところは待ち長かろうけれども待ってもらわにゃでけんというんである。待っとる間はやかましゅう言うて私怒ると言う事じゃなくてです。その待っておる間に本気で天地日月の心になる事を、私は稽古しなければならないね。天は限りなく与えるものねもう限りなく与えれるもの。地はそれはおかげを与えるもの、おかげを与えるもの。
 恵むもの限りなく恵んでいく限りなく与えていく。自分の思いを真心を美しい限りない美しい心を人に与えていくね。実意丁寧神信心なんかていうのはそれなんです。そしてその天がね恵みに恵んで下さる、そのおかげを私共が受け止めれる心、その受け止めれるという心はです大地の様な信心。土の様な信心それをにこやかに又はより明るい心で、それをどの様な事柄でも受けて行こうとするね。やれ痛や今みかげを痛い痛い事であっても今おかげを頂いておりますというて御礼を申し上げていけとこう言うのである。
 喜びで開けた道であるから、喜びでは苦労はさせんね、主人が有り難いというて帰ったなら、本当に有難いですねと言える夫婦、親子家族のものね、そういう私は信心をいよいよ身に付けていかなければいけない。天地日月の心になる事肝要と。そこんところに焦点を置かせて頂いて初めてです、天地と共にですね、はやる事もなからなければ終わりもないと仰せられるようなおかげの頂けれる道が限りなく続けられていく。そういう基礎をね今合楽の私共は頂いておる時だというふうに感じるのです。
 今日甘木で青年会のあの幹部の会がございました。青年会長の会がございました。久保山さんが朝から一時から行って、先程帰ってみえられました。本当に最近ね合楽の青年会が生き生きとして来たので築水連合会の青年会が生き生きして来た、と言われるくらい。ですからもう、    途中切れ   ここにお話を求めて来るならばね、私は人の為にでも何時間なら何時間でも、求められ求められるしこお話もしようけれども、私は他所行ってから、講師にお説教坊んさんにゃならんよと。だから口実がある。
 うちの親先生はもうご結界に座ってござるとがやっとかっとじゃから、もうこの食べもんからもうそのう大変な事だから、とてもそれは出来ませんと言うて、まぁお断りから申しました事ですね、例えば初めて例えば合楽の信心のお話いうのは、非常にいうならば難しい。聞きつかんですなかなか。けれどもたまたま参ってきて一日一日です。本当に一日私の話を頂いて帰った後でおかげを受けて、またお話を頂きたいとこう言うておる。ですから私は皆さんもね、そういう例えばこうなんていうかね。
 そのうどういうたらひとつあぁも思わずにですね。私は怒ることばっか怒らんなですね。本当に私の言う言を聞かせて頂くというところからね、おかげを頂けれると言う事になるのじゃないか、ですからまぁいかにもその私をまぁ認めてください、信じて下さいと言う様になっていけませんけれども。ですから私もよりみなさんにです、おしかりを頂かんように、また皆さんが本当に有り難い親先生として頂けれるような親先生に、私も目指さなければもちろんなりません。
 また本当に私の信心がグズグズしておるために、みなさんの信心がおかげがグズグズしておる事実を私は認めます。ですからここはいよいよひとつあいよかけよでですね、私も精進するから、皆さんも本気で精進させて頂いて、その焦点をです例えばんなら明るくとかにこやかにと言う事でございますけれども。それをもちっと掘り下げていくとです、天地日月の心になること肝要と仰る、天地日月の心が私共の心に備わってくるおかげをね、受けなければならない。それが身に付いていかなければならない。
 どういう難儀な問題があってもお取次ぎを頂いたら、スキッと自分の心がコロコロと、有り難い方へ有り難い方へと転んで変わっていくようなおかげを頂きたい。そこから私は頂けれるおかげ、そういうおかげをひとつ願わせて頂かなければならんと思うのです。今日私御神前であのう下がります時に、あのう今見えませんですね。あのう大盛りに大きなあの箱のお供えがあっとったですね。あれにはあの笹飴と書いてあった。大きな箱が正面に飾ってあったですね。あの笹飴と言う言を頂くのです。
 笹という字はね竹冠に世の中の世という字が書いてある。飴というのはいわゆるあのう食辺に、どうでしたかないわばあの餅飴ですかね。それを私は頂いた笹飴と言う言をね。笹と言う言を例えばいつも頂く様な風にです。竹冠に世の中はねもうこの竹冠、素直な心で過ごさせて頂く以外にゃないのだと。そこに飴である餅であるそのそういう心持ちがね、そういう心持ちがおかげを頂くもとになるのだと。いわゆるままになるもとになるのだ。食辺にこうどうでしたかね。
 ですから世の中の事の全てをね、素直な心で受けていくと言う事。それがどういうことかというとです。素直に受けられない。けれどもそれを御理解を頂かせてもろうて、それが、素直にスキスキッと自分の心の上に、有り難いという心で素直な心で、それを見たり聞いたりでけれるおかげね。お爺さんがはぁ今日はおかげ頂いたぞ。今日はこうやってたこん傘をお地蔵さん達に被せて来たぞという時に、あなたばかりはというのではなくて、はぁそれはよか事してきなさったというそういう心なんです。
 そういう心で世の中というものは渡らなければいけないと、と言う事だと今日のいわば結論を今のお知らせを下さったもんだとこう思うのです。ですからもっともっとなら素直になる稽古を本気でさせて頂いて、その事の自体をですね。素直に本当に有り難くね、どう思うておっても、それが有り難い方へコロコロと転がって行く様なおかげをね、頂かせて頂く一つ精進を、本気でなされなければいけない。ちっとおかげがぐぞついてきたり。又は思う事が右が左になったりすると先生ば怒ろうごとなってくる。
 そういう心ではいつまでたっても、神様が本当に下さろうとしておるおかげ、を頂き止める事は出来んと思うのです。どうぞ話を聞いて、あんた達は日頃どういう信心の稽古をしておるのかとね、遅い事がおかげじゃないかと分かっておかげを頂くよりも、それを聞かんでもですね、それをおかげと頂けれるような心こそ、私は天地日月の心が身に付いていきよる時であるというふうに思うのです。
   どうぞ。  (中間音声切)